[一水四見⑷] 現代より国際的であった古代日本政権の日中関係<村石恵照>

2018.7.2一水四見:村石恵照東論西遊

現代より国際的であった古代日本政権の日中関係

2018.6.30 / 2018.7.05 改訂 村石恵照

日本と東アジアとの交流史を一瞥すれば、古代日本の政権の中枢は、今日の政治状況よりも国際的であったろう。

聖徳太子 (574-621) は部族社会から官僚を育成しつつ国家を形成する途上に生きていたが、高麗の慧慈、百済の慧聡を側近として仏教の要諦を学びつつ、様々な外交ルートを通じて中華帝国・隋と朝鮮半島の政治情勢の情報を得ながら政治を行っていた。見事な地政学的布石にもとづいた外交である。
ちなみに「十七条憲法」は、常に貧しき人々に寄り添う志と法の平等の厳守を要請されている、今日でも適応されるべき国家公務員の公僕の精神を謳った普遍的理念である。

その後の日本文化建設の基礎となる日本の国家的記念碑として東大寺を建立したのは行基 (百済系) や帰化人らであった。

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神社といえば非外来性の神道の宗教的施設のように考えられているが、全国稲荷神社の総本家・伏見稲荷や弥勒菩薩像で有名な広隆寺は渡来系の秦氏が建立したものである。

663年に、朝鮮半島で日本・百済連合の水軍は唐・新羅連合と戦ったが、その時、百済の貴族、官 人ら推定 4000~5000人以上が日本に亡命してきた。
彼らは現代的意味の難民ではなく、貧民や無教養の人々とはほど遠い高い教養と技術をもった人々であり日本に同化して、その後の日本の文化的、技術的発展に多大な寄与をしたことはいうまでもない。

彼らによって朝鮮半島を経由して中国大陸の膨大な優れたソフトの技能とハードの技術が日本にもたらされた。
これは今後の日本の移民政策のヒントとなるかもしれない。

天智天皇は666年に、百済の男女二千人あまりを東国に住まわせた。7世紀の末頃は律令国家の建設期で、これらの外国人移住者たちの貴重な知識・技能が国家の中枢に受け容れられた。
彼らは天智朝から天武・持統朝にかけて、学芸・技術の各方面に広く活躍し、奈良朝文化の形成に主要な役割をはたした。

『続日本紀』文部天皇四年 (700) 六月十七日の条に大宝律令の撰定に加わった19人の名が列挙されている。このうち8人が帰化人と考えられている。

「われわれの祖先が帰化人を同化したというような言い方がよく行われるけれども、そうではな くて、帰化人はわれわれの祖先なのである。帰化人のした仕事は、日本人のためにした仕事では なくて、日本人がしたことなのである。・・・」(関晃「帰化人 古代の政治・経済・文化を語 る」)という見方があるが、この見方の適否にかかわらず、歴史的実態は変わらない。

日本の古代氏族の系譜集成である『新撰姓氏録』(810-824) によれば、当時京都とその近郊に在住の氏族1065の内、帰化系氏族は326氏で全体の約30%を占めている。
今日的に喩えれば、霞ヶ関の上級官僚の3割が大陸からの渡来人の末裔であったことになる。
中国の宋代、日中間に正式な国交はなかったが僧侶の往来は盛んで、多くの日本人の僧侶が大陸に渡ったが、南宋時代 (1127-1279) に限っても、わかっているだけで120名を超えている。

大陸からも鎌倉円覚寺の開祖・無学祖元らが日本にやってきて、時の政権の精神的な指南役となった。

つまり明治維新以前の伝統的な時代の、日本文化のソフトとハードは、ほとんどアジア大陸からもたらされてきたものである。

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鑑真 (688-763)が来日しなければ仏教文献は請来され寺院は建立されても、肝心の仏教教団は確立されず、したがってその後の仏教の歴史的発展もなかったはずである。

鎌倉時代の天台宗・比叡山延暦寺は仏教の伝統的に仏教の総合大学というべき教育施設であった が、仏教だけではなく和歌、儒学の文系のみならず薬学、農業技術、土木技術、天文学をはじめ 兵法まで教授されていた。すべて中国から伝来された当時の最新知識である。

その日本天台宗を成立させたのは最澄 (766-822) であるが、彼の先祖は後漢(劉氏)の孝献帝の末 孫、登萬貴王であり、応神天皇の時日本に渡来した。
中国の天台宗で学んだ最澄が日本天台宗を開かなければ、法然、親鸞、道元、日蓮、栄西ら、日本人の伝統的宗教的性格を形成したような人物たちはいなかっただろうし、源氏物語、能、茶道、歌舞伎、俳句などの日本文化の成果はありえなかったことは当然である。

仏教はそもそも歴史的にインドに誕生した宗教であり、仏教に付随してさまざまなインドの神々も来日した。神社仏閣の観光旅行でお目にかかる金比羅さんも、弁天さんも、大黒さんも、四天王も、みなインドの神々である。

日本は、 地震、台風はあるものの四季が豊かに変わりゆく列島の風土において、インドの精神文明 ( 仏教+インド神話 ) と中国の ( 日本の国情に会わない負の要素を排除した ) 実用文明の融合の中に伝統的に育てられてきた。

日本文化とは、中国文明の価値ある様々な素材を、仏教の知性によって選別し相対化して、(後世 の国家神道の排他性・イデオロギー性とは異質の日本の社稷の保全を本来の使命とする意味の)神 道的感性において洗練化され縁起的に生成されてきたものであるというのが、常識的なわたしの 日本文化論である。

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